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 ヴァイオレット奇譚「Chapter16・"薔薇の罠かご"」



 七時きっかりに目覚まし時計が鳴る。
 いつもより三十分早く騒ぎ出したそれを万莉亜は寝ぼけ眼で眺め、 それからゆっくりと上半身を起こす。
 右を向けば、少し離れたベッドで蛍はすやすやと寝入っていて、その新鮮な光景に思わず 顔をほころばせた。
――蛍より早く起きたの初めてだ……
 ひどい時は始業ベルぎりぎりまでベッドから動かずに、顔だけ洗い制服を抱え込んでパジャマのまま部屋を飛び出し、 旧校舎の教室へ走りがてら購買で朝ご飯のパンを買う。
 大分荒業だが寮生活の特権でもあるその方法を、蛍はいつも呆れ返って物も言えずに眺めていた。
 しかし、もうその方法は封印した。

 万莉亜はベッドから起き上がり、丹念に顔を洗い歯を磨く。
 それから昨夜きちんとアイロンがけをした制服に着替えてドライヤーと格闘を始める。柔らかくて細い髪質に胡坐をかいて 朝はろくにブラッシングもしなかったが、こうして丁寧にドライヤーで梳かせば、髪は見違えるように綺麗にまとまり、ふんわりとなびいた。
「……んー……」
 そんな風にして万莉亜が鏡の前で奮闘していると、ベッドから蛍が鈍い声で唸り出す。 ドライヤーの音が耳ざわりだったらしく、彼女はしかめっ面で上半身を起こすとそのまま万莉亜を睨んだ。
「蛍、おはよう」
「……うるさい」
「もう朝だよ。パン焼くけど食べる?」
 いつもとは逆の台詞に蛍は眉根を寄せる。
 いそいそと朝食の準備をはじめる万莉亜を目で追いながら、何事だろうと首をひねる。
「急がないと、遅刻しちゃうよ」
 そんな彼女をたしなめるようにして万莉亜が言うと、蛍は少し困惑しながらベッドから降りて 自分の仕度を始めた。

「いただきまーす」
 二人で仲良くテーブルを囲み朝食を食べる。
 昼食を共にすることも滅多に無いが、こうやって朝食を共にするのはもっと希少かもしれない。 そのことに万莉亜は満足してにこにこしながら両手を合わせた。
「……何かあったの?」
 そんな相手を不審がり、探るようにして蛍が呟く。万莉亜はキョトンとして両方の眉を持ち上げた。
「何がって?」
「……なんで万莉亜が朝からしっかりしてるの?」
「え、だって、その方がいいでしょ?」
「まぁ、そうだけど……」
 腑に落ちないままトーストを齧る。
 確かにルームメイトとしては、朝からぎゃんぎゃん彼女を起こさなくてすむのだから 助かるといえばそうなのだけど。
「私今年の目標は摩央ちゃんみたいに綺麗になることなんだ」 
 ホットミルクに砂糖を混ぜながら万莉亜が言う。 その意外な発言に蛍は口の動きを止めたまま万莉亜を見上げた。もう絶対、何かがおかしい。
「なんでまた……急に」
「何となく。摩央ちゃん見てると正直羨ましくなるんだもん」
 漏らされた本音に蛍は曖昧に頷いた。
 摩央は、確かに美人だ。彼女は今のところ学園一の美少女で通っているが、 おそらくどの学校へ行ってもその栄光を手にするのだろう。
 茶色い髪を綺麗に巻いて、素材もピカイチのくせにメイクにまで隙が無い彼女を見ていれば、 女として劣等感を抱くのは当然かもしれない。同じクラスだったときは、蛍でさえしばしば見とれることがあった。
 ただ、万莉亜もそう感じていることが、やっぱり信じられなくて「うーん」と唸る。
「蛍?」
 黙ってしまった相手を万莉亜が覗き込む。
 印象が薄いと思われがちなのは、癖の無い顔立ちのせいかも知れない。 よく見れば黒目がちの目は可愛いし、パーツのバランスだって良い。だからきちんと磨けば、 摩央にだって劣らない美少女になれる。ただ、本人がそれに気付いてしまうのが寂しいと感じるのは 我がままで身勝手な独占欲だろうか。
「ま、少なくとも指先は摩央より綺麗だよ」
 素直になれなくてわざと意地悪くそう言うと、万莉亜は喜んでいいのか落ち込むべきなのか、非常に複雑そうな表情で自分の両手を見下ろした
「私……そんなピンポイントなの?」
「いいじゃん。手タレになれるよ。モデルになれるなんてすごいじゃない」
「……う。ありがと」
 すっかり肩を落としてトーストを齧る万莉亜を見て蛍がほっと胸を撫で下ろす。
 あんまり急いで綺麗にならないで欲しい。
 知らない花の香りを身にまとう彼女に気付くたびにそんな焦燥感にかられる。
 あの奇妙な話を聞いた夜から、万莉亜の生活に何らかの異変が起きているのは知っていた。 それでも、あんな馬鹿みたいな話をもう一度聞く気にはなれなくてそのまま知らぬフリを続けている。
 ただなんとなく、目を離した隙に親友がどこかへ消えてしまいそうな気がして、意味も無く 湧き上がる焦燥感を抱えている。



******



 お昼。
 新校舎の五階、螺旋階段の上でルイスは客人を待つ。
「万莉亜さん」
 やがてその階段を息を切らして駆け上ってきた少女を見つけ、そう声をかけた。
「あ、ルイスさん!」
 彼が立っている事を知ると、顔いっぱいに笑みを浮かべて少女が手を振る。 そのまま駆けのぼり彼の前に近寄ると脇に抱えていた薄い箱を彼にそのまま手渡した。
「はい。約束の生八つ橋」
「ありがとうございます。今お茶を入れますね」
 そう言って彼女をフロアに残し去っていこうとするルイスを引きとめ、万莉亜は さらに持っていた紙袋を彼に渡す。
「紅茶よりこっちの方がいいですよ。はい」
「これは……?」
「急須とお茶っ葉。部屋から持ってきたんだけど、使ってください」
 それを受け取るとルイスは嬉しそうに微笑んでキッチンへ向かう。 茶道具を買う前に、まずは日本茶の味に慣れるべきだと思った万莉亜の提案で強引に決まったお茶会だったが、 意外にも嬉しそうな彼の顔を見てほっと安堵する。
「ちょっと」
 ニコニコしてソファに向かうと、そこには不服そうな表情のクレアが足を伸ばして座っていたので 万莉亜は驚いて声を漏らす。
「クレアさん、居たんですか!」
 仮にもこの学園の理事長であり、フロアのボスに向かってそう声をかける。
 彼は午前中は大抵自室にこもって寝てばかりいるからついそう言ってしまったのだが、 嫌味にも聞こえるなと慌てた万莉亜が笑顔を取り繕う。
 彼はその言葉を聞き流し、隣のソファに腰を下ろした万莉亜の手を取って、だらしのない格好のままそこにキスを落とす。 そして万莉亜がいつものように素早くその手を引っ込めようとしても、今日はなぜか離そうとはしない。
「僕の前で他の男といちゃいちゃするのはやめてくれないかな」
「……は?」
 突拍子もない発言に笑顔のまま首を傾ける。
「悪いけどマグナに関しては心が狭いんだ」
「はぁ……」
 口を開けたままそう言って頷くと、やっと解放された手を取り戻した万莉亜はそれを膝の上に置いてその言葉の 意味について考えてみた。
――犬の……マーキングみたいなことかな……?
 そうやって万莉亜が頭をひねっている横で、クレアはもう一度静かに目を閉じる。
「クレアさん」
「……何」
「寝るんですか?」
「寝ないよ」
 目を閉じながら、そう言う彼が可笑しくて万莉亜は吹き出した。
 いつもの朝の自分と一緒だ。「起きるよ」と言いながらまた目を閉じる。 それを蛍の怒声で突っ込まれて、しぶしぶ起き上がる。そんな朝は、もう卒業しようと思っているけれど。
「クレアさん、八つ橋食べませんか? あ、八つ橋知ってます? 京都の和菓子」
「知ってるけど、でも遠慮しておくよ」
「そうですか……」
 折角ならみんなに食べて欲しかったのになと思いながら、目を閉じている彼の横顔を盗み見る。 綺麗に生え揃った長い金の睫毛が物珍しくて、気が付くと目が離せない。こうして見ると、彼は ただの綺麗な青年だ。目の覚めるような美しさにもきちんと血が通っていて、不気味だとは思わない。
 ただそのまぶたの奥には透き通るようなバイオレットの瞳があって、 その驚くような透明感だけが唯一、彼は異端なのだと主張する。
「クレアさん、新校舎ってもうクラスは入れないんですか?」
 彼がただの青年にしか見えないことに奇妙な違和感を感じてそう声をかける。 やっぱり、あの紫が見えないと落ち着かないのかもしれない。
「うん。入れないよ」
 それなのに、彼は目をつぶったまま答える。
「……旧校舎にクーラー入れる予定ってあります?」
「欲しいの?」
「あったら嬉しいです」
「じゃあ入れるよ。万莉亜何組?」
「……あの……出来たら他の教室にも」
「うん。分かった」
「…………」
 中々まぶたを開いてくれない相手に万莉亜が次の話題を探す。 どうにかして、目を開けてくれないだろうか。
「クレアさん……体育のなっちゃんって知ってますか?」
「……誰?」
「体育の先生です」
「ごめん知らない。この学園のこと全然知らないんだ」
「……理事長ですよね?」
「名目はね」
「……そうですか」
 また会話が終わる。結局彼はバイオレットを隠したまま再び沈黙した。 敗北の気配を感じながら万莉亜はまた適当に質問を投げる。
「クレアさん、何か欲しいものありますか?」
 これはもう口癖だろうか。言ってしまってからハッとする。
 案の定固く閉ざされたまぶたの隙間から紫の瞳がこちらを見上げていて、 万莉亜は咄嗟に首を横に振った。
「こ、子供以外で!」
 間髪入れずに付け加えられた条件に、クレアがつまらなそうにまた瞳を閉じる。
「他に欲しいものなんてないよ」
「何かあるでしょ? 私ばっかり貰ってるわけにはいきませんよ」
「そうだな……もし叶うのなら」
「はい!」
「少し黙っててもらえる?」
「…………はい」
 意気消沈して縮こまった万莉亜に満足してまた神経を研ぎ澄ますと、今度は料理と八つ橋を乗せたワゴンをがらがらと鳴らしながら ルイスがこちらに向かってきたので、クレアは観念して目を開いた。
「皆さん、お茶が入りましたよ」
「わぁ、美味しそう!」
 大きめのパンにこれでもかと具材をつめこんだホットドッグとコーンポタージュ。 それを見た万莉亜が両手を打ち鳴らす。
「クレア、万莉亜さんがインターネットで八つ橋を買ってきてくれましたよ」
 そう言ってそれを並べた皿を見せる。
「……良かったな」
「クレアもどうです? 緑茶もありますけど」
「いや、結構」
 そう言って立ち上がると、彼は万莉亜に一回微笑んでからその場を後にした。 その後姿を目で追いながら万莉亜は首を傾げる。
「クレアさん、元気なさそうですね。眠いのかな」
「いえ、気を張っているんだと思います」
「……どうして?」
「梨佳さんの情報が第四世代に伝わってしまったからです」
 お茶を入れながら淡々と告げられた台詞に万莉亜は驚いて目を見開いた。 それは、結構な一大事ではないだろうか。もしそうならば、もう香水を使ったところで……。
「ど、どうするんですか?」
「相手の出方次第です。でも大丈夫ですよ。第四世代と第三世代では絶対的な力の差がありますしね」
 相手側にも第三世代がいることを伏せたまま、ルイスは彼女を安心させるために気楽に笑ってみせる。
「寮長は……今どこに?」
「この階の自室で休んでいます」
 まさかこのフロアにいるとは思ってもみなかった万莉亜が驚いて指でさされた部屋の方向へ視線を向ける。 ここに梨佳の部屋まであるとは知らなかった。
「もちろん万莉亜さんのお部屋も、近日中に用意させていただきますね」
 そう言われてブンブンと首を振る。 
「いえ! 私は……その、寮に部屋ありますから……」
 それは梨佳にもあるだろうと自分で突っ込みながら、ルイスの申し出を 拒否すると、彼は彼女の希望などお構いなしに「でも必要ですから」と告げてこの話題を締めくくる。
「さすがの梨佳さんも今回ばかりは不安でしょうね」
 それから、どこか憐れむようにして呟かれた言葉に万莉亜も頷いて目を伏せる。
 もし自分が同じ立場だったら、きっと恐ろしくてたまらないだろう。
 香水をどんなにつけてももう意味がない。怖くて、学園の敷地から一歩も出られなくなる。 それを、梨佳は今体感しているのだ。
 そう思えば、暢気に同じフロアで八つ橋をデザートにランチをしている自分が 随分無神経な気がして、その日の昼食はあまり味がしなかった。



******



「知ってる?」
 翌日の授業中、隣から囁かれた摩央の声に万莉亜はノートから顔を上げる。
「今日から寮長変わるんだって」
「え!?」
 驚いて声を上げれば、黒板から教師に鋭く睨まれて万莉亜は口元を両手で覆う。
「羽沢先輩、ずっと寮にも学校にも帰ってきてないんだって」
「……」
 おそらく、新校舎の五階に彼女はいる。そう思ってもそれを摩央に教えることは出来ないから 万莉亜は黙って頷いた。
「だから寮長交代だって。ラッキーじゃない?」
 複雑な感情がこみ上げる。
 確かに、少し前は自分だって彼女を苦手としていた。いや、苦手なのは今も変わらないが、 昔はもっと単純に、後輩として先輩である梨佳に怯えていた。門限を破るたびに彼女にぐちぐちと言われるのも嫌だった。
「…………」
「万莉亜?」
「ううん……先輩、帰ってくるといいね」
「げ。帰ってこなくていいよ、あんなやつ」
 そう言い捨てると摩央は首を引っ込めて視線を教科書に戻す。
――いつ、帰ってこられるんだろう
 そもそも、顔を見られた場合、どう事態に収拾をつけるのだろう。 第四世代という生き物は、一体どの程度存在するのだろうか。顔を見た者だけを倒せば、 それで終わるのだろうか。
 考えても答えは出ない。
 そもそも万莉亜には、彼らに対する知識があまりない。
――……一度、ちゃんと聞いたほうがいいのかもしれない
 そんな風にして考えながら一日を悶々と過ごし、授業が終わるとその足で寮に向かう。
 蛍は寮長が変わったことをもう知っているのだろうか。
 早く彼女に聞いてみたくて早足で階段を上れば、部屋の前に立つ人物に驚いて足を止める。
「りょっ……せ、先輩……?」
 制服ではなく、白いパンツの上に黒のセーターを着た梨佳が腕組みをして立っていた。
「も、もう大丈夫なんですか?」
 ナイフで追い掛け回されたことも忘れ、慌てて駆け寄れば、梨佳はそのまま小さく頷いて、顔にかかった短い髪を 耳にかけなおす。
「……でも、もうマグナは辞める事にするわ」
「……え……」
 信じられなくて言葉を失う。
「もう、こんな思いはたくさんよ」
 身震いする体を両手で包み、いつもとは違う怯えた様子の彼女を見て、 どれほど恐ろしい目にあったのだろうと万莉亜の背中にも冷や汗が流れた。
「どの道……私はクレアの子供を産めないから」
「……先輩」
「私にはもうマグナの資格がない」 
「…………」
「でも、あなたにだって無いと思う」
「え……」
 心臓がどきんと音を立てる。
 俯いていた顔を上げれば、梨佳のシャープな瞳が真っ直ぐ万莉亜に向けられていて、 何故だか逃げ出したい衝動に駆られた。まるで、門限を破って叱られている時のように。
「あなたに覚悟が無いって言ってるんじゃないわ。それも仕方のないことだもの」
「……どういう意味ですか」
「あなたは、何も知らない。だから、覚悟のしようも無いってこと」
「…………」
「知りたい?」
「な、何を……」
「マグナの全て」
 しばらく考えた後、万莉亜は腹を括って頷いた。
 知るべきだと思った。彼らの傍に、居たいのなら。
「いいわ、ついてきて」
 そう言って歩き出した梨佳の後を万莉亜は黙ってついていく。
 梨佳はそのまま寮を出ると、学園の校舎へと続く渡り廊下は無視して寮の庭を突っ切った。
 てっきり新校舎へ向かうものだと思っていた万莉亜はほんの少しそれを不思議に思いながら制服の袖を 鼻に寄せた。
 寮の庭を突っ切れば、一般の通りに出てしまう。そこは学園の敷地外だから、ほんの少し不安を感じて体に漂う菫の匂いを確認する。
――大丈夫だ……
 ほっと息をついて前方の梨佳を見る。どこに行くつもりなのだろう。もうすぐ、通りに出てしまう。
「あの……先輩」
「来月は中間テストね」
「……え?」
「あなた、苦手な科目は?」
「数学ですけど……」
「そう。今度暇が出来たら教えてあげるから、私の部屋にいらっしゃいよ」
「…………先輩?」
 すっかり通りに出てしまった二人が、突っ立って向かい合う。
「あんなことして、反省してるの」
 目を伏せたままそう言う梨佳が、ナイフで襲った件を言っているのだと気付き、万莉亜は戸惑った。
 しかしその時、何となく奇妙な物足りなさを覚えて眉根を寄せる。あるはずのものが無い。 こうして向かい合っていたら嫌でも吸い込んでしまう香り。それが無い。
「……先輩」
「何?」
「香水……つけてますか?」
 おそるおそる尋ねれば、梨佳は驚いたように口元を手で覆う。
「つけてないんですか!?」
 だとしたら敷地外に居るのはまずい。事態は片付いたんだとしても、 香水をつけずに学園の外に出るなと普段から固く言われている万莉亜はそのまま梨佳の腕を掴んで敷地の中に急ぐ。
 
「……見つけたぞ!」
 
 その言葉が聞こえてきたのとほぼ同時に、万莉亜と梨佳は数人の男性に囲まれてしまう。
 皆若い日本人の男性ではあったが、瞳は底の見えそうなバイオレットで、万莉亜は恐怖で固まってしまう。
 後から駆けつけてきた増援も加わり、結局十数人の男性に囲まれた二人の少女は、無意識のうちに体を抱き合っていた。
「……おい、両方とも匂うぞ」
「くっついてるからだろ」
 男達が言葉を交わす。
 万莉亜は視線をキョロキョロと回すが、ぐるりと一週囲まれてしまって、逃げ場が無い。
「羽沢梨佳はどっちだ」
 その時、男達からそう問いかけられて万莉亜は梨佳を見てもいいものかどうか分からず 視線を地面に落とした。
「どっちだと聞いている」
――どうしよう……どうすれば……
 奥歯がガタガタと音を立てる。
 それに負けじと、万莉亜に抱きついている梨佳の両腕も震えていた。
「制服を着てるほうじゃないか?」
 集団からそう声が上がったのが確かに聞こえて、万莉亜の心臓が激しく鼓動を打ち始める。
――早く来て……誰か……クレアさんッ……!

「っち、しかたない。おい、羽沢梨佳の特徴を知ってる奴は?」
「確か、川井って奴なら知ってると思いますよ」
「かけろ」
 命じられた男が、ポケットから携帯電話を取り出す。
 プッシュ音のあとに、のんびりとしたコール音。それが、死刑宣告のカウントダウンのように耳に響く。 梨佳が痛いほどに万莉亜の両腕を握りつぶす。けれど、そんなことはどうでもいい。 どうしたらいい。どうしたら。

「……私……です」

 震える声で、呟いた。
 何を言っているのだろうと思いながら、どうするつもりだと自分を叱りながら、それでも呟いてしまった。
 万莉亜が声を上げた瞬間、男達は静まり返り、携帯を持っていた男はその電源を切って万莉亜に近寄る。 そしてその顔を無遠慮に彼女の首元へと沈めた。
 気持ちが悪くて全身に鳥肌が立つ。
 それでも目をつぶってじっと耐えていると、男はゆっくりと顔を離して頷いた。
「こいつです。香水つけてるけど、その下からマグナの匂いがする」
 次の瞬間、いきなり二人の男に両方の腕を掴まれ、それを周りから隠すようにして残りの男達が囲う。 そしてそのまま路肩に止めていた白い乗用車へと押し込められた。
 万莉亜は精一杯の抵抗を試みるが、女性一人対男性十数人では叫び声一つろくに上げられない。
 結局そのまま車の後部座席乗せられて、視線を窓ガラスの向こうに投げる。
 一人取り残された梨佳が学園の敷地内へと駆け戻っていく後ろ姿が目に入って、万莉亜はそれに一縷の望みをかけるしかなかった。
――大丈夫。すぐに……知らせを聞いたクレアさん達が……
 助けに来てくれる。
 だから大丈夫。
 恐怖でどうにかなってしまいそうな心をそうやって励まして震える奥歯を唇ごと強く噛む。
――大丈夫……絶対に大丈夫……
 だからどうか。
 早く。


「梨佳さん!」
 寮の庭を歩く梨佳の元へ血相を変えたルイスが駆け寄る。
「……ルイス。どうして……」
「クレアが、……すみません、ちょっと息を……」
 よほど慌てていたのだろう。苦しそうに息を吸うルイスが呼吸を整えるのを待つ。
「クレアが、あなたの気配が一瞬学園から消えたというので……慌てて部屋に行ったのですが」
 もぬけの殻だったので、と言い切ってからルイスはさらに大きく息を吸って吐いた。
 それから何かに気付いたようにして眉をひそめる。
「……梨佳さん、香水は?」
「つけてないわ。いいでしょ別に。ちゃんと敷地内に引き篭もってるんだから」
「いえ、今は困ります。相手は敷地の外からあなたの居場所を特定しようと必死に鼻をひくつかせていますから」
「……分かったわよ」
 うんざりしたような口調でそう返すと、梨佳はそのまま新校舎へと向かう。 そのすぐ横を、辺りを警戒しながらルイスがぴったりと張り付いて歩く。
「……しばらくは五階から出ないようにとお願いしたじゃないですか」
「あんな狭いところに閉じ込められたら、誰だって外の空気を吸いたくなるわ」
「……今だけです」
 果たしてそうだろうかと自問しながら気休めを言うと、意外にも梨佳は素直に頷いた。 それから少しだけ微笑んでルイスを見上げる。
「ねぇ、クレアはそんなに私の気配ばかり探っているの?」
「……え?」
「そう言ってたじゃない。私の気配が学園から一瞬消えたって」
「ああ、そうです。クレアはずっとあなたの気配を確認していますよ。おそらく今も」
「そうなの」
 随分と満足そうに梨佳が答える。
 いつもの独占欲だろうと、ルイスがそれを取り違える。
「なら早く戻ってあげないとね」
 微笑んで駆け出すと、彼女はたったの一度も振り返らずに新校舎へと消えていった。
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