ヴァイオレット奇譚2

Chapter2◆「始まりのカニバル―【1】」




 放課後。
 生徒の気配がしないかを十分に確認してから、私服に着替えた万莉亜は 新校舎四階にある螺旋階段を一気に駆け上がった。
 最初に目に留まるフロアの中央のソファでファッション雑誌をめくっていたハンリエットが 陽気に挨拶をして彼女を迎えると、万莉亜は微笑み小走りで近寄る。
「もう学校は終わったの?」
「あ、はい。あの、クレアさんいます?」
「いるわよ。瑛士の部屋に」
「瑛士くんの?」
 小首をかしげて不思議そうな表情を見せる万莉亜にハンリエットは軽く肩をすくめて 視線を雑誌に戻した。
「男同士で部屋にこもって何か遊んでたみたいだけど」
「あ、遊ぶ?」
 あのクレアが、瑛士と?
 俄かには信じられず、瑛士の部屋の方向とハンリエットの顔を交互に見やる。
「男っていつまでたってもガキっていうか、ロマンの塊っていうか。時々呆れちゃうわ」
「……はぁ」
 仕方がなしに理事長室とは遠くかけ離れた瑛士の部屋へと向かう。
 無駄な広さと部屋数だけを持て余したこのフロアの、よりにもよって一番狭い、かつてのリネン室を現在瑛士は 間借りしている。与えられた家具も必要最低限の質素なもので、たとえばほとんど使われることの無い万莉亜の豪華絢爛な私室と比べると その格差はあからさまだ。
 しかし始めのベッドが地下駐車場のコンクリートの上という最悪のスタートを切った瑛士は、 どうやらこれを待遇の改善だと受け止めたらしい。実際は不審者として噂が立っては困るというルイスの助言にしたがったまでで、 小生意気な野良犬など未来永劫地下の放し飼いで十分だと考えていたボスが 歓迎とは程遠い渋い顔で嫌々螺旋階段を開放したことを瑛士も、そしてもちろん万莉亜も知らない。
――……いつの間にそんなに仲良しに……
 自分が引き入れた手前、責任のようなものを瑛士に感じるときがある。
 だからクレアが積極的に彼と友好的な関係を築いてくれるのならば、これは万莉亜にとっても嬉しいことだが、 何ヶ月たっても枝たちに見せるような愛情を瑛士には露ほども見せなかったクレアだ。いささか唐突な感じもする。
「クレアさん。瑛士くん」
 リネン室、もとい瑛士の部屋の前で小さくノックをして呼びかけてみると、なにやらガタガタと 慌しい物音が立つ。
「……あのー?」
「万莉亜?」
 扉の向こうから、落ち着いたクレアの声が返ってきた。
「はい。あの、入ってもいいですか?」
 そう尋ねても返事が無いので、仕方がなしにドアノブに手をかけた瞬間、向こう側から僅かに開かれた 隙間。その狭い隙間をすり抜けるようにしてクレアが部屋から姿を現した。
「やあ」
 微笑みながら後ろ手で彼がドアを閉める。
 相変わらずうっとりするような笑顔だったが、肘まで捲くられている白いシャツは絶望的なまでに茶色く 薄汚れていた。よく見るとブロンドの毛先もところどころくすんでいる。
「な、何してたんですか……?」
 珍しく乱れている彼を見て思わず尋ねると、クレアは一瞬バイオレットの瞳を逸らした後に「大掃除」と 呟いてすぐに咳払いをした。
「僕の部屋に行こう。今お茶を入れさせるから」
 自身の手が汚れていることで遠慮したのか、万莉亜の手を引かずに歩き出したクレアの背中を 慌てて呼び止めて忘れかけていた用件を伝える。
「あの……実は、今日これからお見舞いに行く約束のことなんですけど……」
「ごめん、あと一時間……いや、三十分待ってくれないかな? すぐ用意するから」
「あ、いいんです。あの……実は、突然用事が出来ちゃって……」
「用事?」
「はい。蛍とどうしても今日中に買い物に行かなくちゃいけなくて……」
 何を買いに行くのか。どうして今日中でなければいけないのか。色々と もっともらしい理由を用意して来た万莉亜だったが、クレアは意外にもあっさりと頷き、 快く了承してくれた。
「ごめんなさい。先にクレアさんとお見舞いの約束してたのに……あの、明日にしてもらってもいいですか?」
「もちろん。たまには蛍に譲らないとね。君の大事な親友なんだから」
 そう言ってくれた彼にほっと胸を撫で下ろし、嘘の上塗りを避けられたことに安心する。
「それで、すぐそこの定食屋さんで夕御飯も済ませちゃおうかって話になって、あの…… 二人きりで行ってもいいですか?」
 つまり枝たちを護衛に付けてくれるなとお願いしてみる。
 さすがにこれは厳しいかなと、はなから諦め半分の万莉亜だったし、もし駄目だと言われた場合は せめてシリルにお願いしようと思っていたのだが、クレアはこれにも簡単に頷いた。
「二人でゆっくりしておいで」
「……」
「心配だから、あまり遅くならないでね」
「……は」
 驚きのあまり口を開いたまま上手く返事が出来ないでいると、そんな彼女を見てクレアが苦笑した。
「たまにはこんな日もあるよ」
「……」
「ごくたまにだけど。今年はもう無いんじゃないかな」
 そう告げて理事長室へと去っていく彼の後姿を呆然と見つめながら、信じがたい気持ちで ふらふらとフロア中央のラウンジへと向かい、まだ雑誌を読みふけっていたハンリエットの前でがくりと 膝をつく。
「クレアさんが……で、出かけてもいいって……」
「心の広い恋人をお持ちだこと」
 呆れたように返すハンリエットを見上げてその腕をつかむ。
「だ、だって、護衛は無くてもいいって! 蛍と二人だけでいいって」
「まぁ素敵。明日は空から槍が降ってくるかもしれないわね」
「信じられないっ!」
 がくがくと揺さぶられ雑誌を読むことを諦めたハンリエットがたっぷりと憐れみを含んだ瞳で 万莉亜を見下ろす。
 年末の大騒動以来、身を潜めるようにして昼夜共に暮らし、どこに行くにしても彼に報告し、付き添ってもらい、 手を引かれて歩き、そんな生活に慣れきってしまったらしい万莉亜を見て、よく調教されているわねと喉まで 出かかった言葉をのみこむ。
「で、どこに行くの?」
「蛍と……ちょっと買い物に。今日中に買っちゃいたいんです……」
「へぇ」
 歯切れの悪い彼女を見て嘘に気付くことは容易だったが、外野なので黙っておくことにする。
「ま、気をつけていってらっしゃいよ。たまには羽をのばすのもいいんじゃない?」
「はい。ありがとうございます」
「私何もしてないわよ」
 そう言って笑ったハンリエットに手を振って万莉亜は来た道を引き返した。
 実際、クレアも枝も無しに外へ出るのは久しぶりなので、不安よりも興奮が勝る。 小さな子供じゃあるまいし、冒険に出るわけじゃあるまいしと冷静につっこむ自分もいたが、 それほどまでに寄りかかりっぱなしの生活が続いたのだから仕方が無い。

 万莉亜が螺旋階段を二段飛ばしで下っていった数秒後。
 新しいシャツに着替えたクレアが理事長室から再び現れた。
 パリッと糊のきいたシャツの袖口をためらうことなく先ほどと同じように捲り上げながら 足早にフロアを突っ切っていく彼をハンリエットが横目で追う。
「万莉亜はもう行ったわよ」
 何かに急いている様子の彼にそう声をかけると、クレアは足を止めずに 短く指示を返した。
「そう。じゃあ、護衛は気付かれないように頼むよ、ハンリエット」
「……本当に心が広いのね」
 読んでいた雑誌を放り投げて立ち上がり、凝り固まった体をほぐしながら 万莉亜の後をハンリエットが追いかける。その様子を確認することも無く、 クレアは瑛士の部屋へと足早に戻りドアを開ける。
 途端に漂うシンナーの刺激臭が鼻をついた。
 顔をしかめながらドアを閉め、色々と物が散乱し足の踏み場も無い 部屋を上手に進む。
 中央では、白いマスクを装着した瑛士が真剣な面持ちでプラモデルの部品に塗装を 施していた。一心不乱に作業するその姿をげんなりと眺めながら、ドアにもたれ掛かっていると、 作業の手を休めずに瑛士が口を開く。
「あとどんくらいで出るんだ? 三十分?」
「猶予が出来たよ」
「え? まじで?」
 瞳を輝かせて顔を上げた彼に、早くも正直に告げたことを後悔し始める。
「言っておくけど、今夜中に届けるから、そんなに手間暇かけないぞ」
「何言ってるんだよ! そんだけ時間がありゃ大分完成度の高いもんが作れる。ああ良かった」
「…………」
「こんな雑なやり方で綺麗に発色するか不安だったんだよ俺は。ムラが出ても嫌だしさ、やっぱりベースにホワイトサフも吹かないと」
「おい、作ったのは寝たきりの老人だぞ」
「いや、俺こういうのはきちんとしておきたいから」
「……組み立てるだけでいいのに」
「何言ってんだ! 塗装もなしに飾ろうだなんて、何のためのプラモデルだよ!」
「……」
――こいつに声をかけたのがそもそもの間違いだった……
 持ち帰った祖母の見舞い品を突きつけて適当にやっといてくれと頼んだはずが、想像をはるかに凌駕した こだわりを発揮され、とっくに完成しているはずの計画が丸潰れになってしまった。 結局自らも作業に加わり、その上指揮官は瑛士という非常にやっかいな状態だ。
 視力の衰えた万莉亜の祖母の姿が脳裏によぎりため息を零す。
「……看護婦がひっくり返らないといいけど」
「出来栄えを見てか? そうだろうな」
 自慢げに鼻を鳴らす少年を見て何を言っても無駄だと悟り、黙って作業を進めた。
 これで出来上がるのがまたかき揚げにしか見えないおかしな恐竜ロボットなのだから、 やるせないことこの上ないが、そんなボヤキも「まぁ見てろ」と言わんばかりの瑛士を奮い立たせるだけだと知っているから口をつぐむ。
――そういえば、何だったんだろう……
 時間に追われていたクレアとしては万莉亜の申し出は願ってもいないことで、 つい二つ返事で送り出してしまったが、へたくそな嘘をついてまで自分を遠ざけ出かける その理由とは。
 ぼんやりと考えてはみるが、気持ちいいほどに一つも思い浮かばない。
「万莉亜は何か用なのか?」
「馴れ馴れしく呼ぶな」
「……万莉亜さんはどうしたのかって聞いてんだよ」
「どこかに行ってしまったよ。僕に適当な嘘をついて」
 ざまーみろとマスクの下から笑いを零す瑛士を睨み、適当に塗料を吹きかける。 下地もクソも知ったことかと言わんばかりの彼の暴挙に瑛士が悲鳴を上げてやめてくれと懇願した。
「気にするなよ! あいつは浮気なんて出来るタマじゃねーし、心配無用だって。だからそんな風に、ああっ、 やめてくれっ!!」
「そんなことはなっから心配してない。嘘をつかれたことがショックなんだ」
「……よく言うぜ。自分は息吐くように嘘付くくせによ」
「否定はしないけど、それは全部万莉亜を思ってのことだし、その方が物事がスムーズに……って、何でお前に申し開きしなきゃならないんだ」
「甘いな。女ってのは、感情で生きてる生き物だぞ。嘘イコール悪なんだよ。理屈なんて二の次だ」
「悪でもかまわないよ」
「……自己中心的なやつだ」
「なかなか治らないんだ」
 治すつもりが無いんだろ、などと隣でぶつぶつ呟いている瑛士の声が、シンナーの匂いに 酔ってぐらつく思考を通り過ぎていく。
――昔はもう少しマシだったんだけどな……
 正体不明の化け物をこれだけ長くやっていれば、つかなければならない嘘も多くなる。
 胸を張って堂々と伝えることの出来る真実が、少なくなる。
 そのくせ彼女には誠実であれと願うのだから、自己中心的で身勝手なこと甚だしい。



******



 正直に言えなかったのは、やはり後ろめたいからだろうか。
 いざ待ち合わせの時間となると、途端に申し訳なくなって、今からでも キャンセルしようかと携帯電話を閉じたり開いたり、途端に落ち着きを失う。

 学園から一駅ほど離れた小さな喫茶店。
 待ち合わせの七時をもう五分ほど過ぎているが、相手が来る気配は無い。
 万莉亜の座っている奥の席から少し離れた窓際の席には、内緒で連れて来た付き添いの蛍が 頬杖をつきながら外を行き交う人々を視線で追っていた。
 おそらく、中々現れない待ち人を探しているのだろう。
――……来ませんように……
 そう祈りながらひたすら時間が流れるのを待つ。
 来ないのなら、その方がよほどいい。結局悪戯だったということで 話は解決する。おかしな事件に、詩織が巻き込まれる心配も無い。
 そこまでしてやる義理は無いと蛍は言うが、すでに待ち合わせの日付と場所を指定された後だったので、 気後れしながらもおそるおそる足を運ぶことを選んでしまった。
 野次馬根性といわれればそれまでだが、喫茶店に到着するまでの万莉亜には一応「詩織のため」という 大義名分があった。
 自分の後輩におかしなメールを送り、誘い出し、何かをするつもりなら許さないと、きつくそう言い聞かせてやるのだという 使命感もあった。
 だが今やその決意も砕け、「どうか誰も来ませんように」と怯えながら祈っている有様だ。
 それから五分が過ぎ、十分が過ぎ、二十分が過ぎると痺れを切らせた蛍が席を立ち、奥の座席にいる万莉亜に 「トイレ」と告げて姿を消す。
 喫茶店の入り口が来客の音を立てたのは、丁度その時だった。
 計ったようなタイミングに、思わず万莉亜が肩をびくつかせて視線を向ける。
――……あ……
 一瞬で全身に鳥肌がたつ。
 新しく入ってきた客は中年の男性だった。
 多少太り気味ではあるが灰色のスーツを綺麗に着こなし、小脇には黒いビジネスバッグを抱えている。 よく見る会社員風の男性ではあるが、万莉亜を怯えさせたのは風貌にはいささか不釣合いに見える真っ黒なサングラスだった。
――あの人じゃありませんように……
 慌てて俯き、注文してから一度も口にしていなかったカフェオレに口をつける。
 そうしていても、彼がフロアをキョロキョロと見回しているのが手に取るように分かった。
――来ないで……
 ストローを歯で力いっぱい噛みながら祈っていると、こちらに足音が近づいてくる。
――…………私だ
 落ち着いた動作でグラスを置き、さも今気がついたかのようにして顔を上げる。
 中年男性は思ったよりもすぐ横に立っていて、真っ黒なサングラスを外さすに口元だけ引き上げて微笑んだ。
「田中よう子さん?」
 彼は思ったよりも感じのよい優しい声で、蛍と万莉亜の考えた偽名を口にする。
 万莉亜の携帯はクレアによって架空の名義で作られている。 一体どうやったのはあえて聞かなかったが、つまりこの携帯番号から万莉亜を特定することは それなりに厄介だということだ。
 それならばあとは偽名さえ使えば大丈夫だと思って急遽考えた「田中よう子」という名前が、 赤の他人の口から出るとどういうわけか白々しく聞こえてしまう。偽名ですと言っているような気がしてくる。
 もう少し凝ればよかったと後悔しながら、それでも引きつった笑顔で頷くと、相手は安心したように頷いて 正面の席に腰を下ろした。
「始めまして。私は春川 と申します。メールでお伝えしたとおり、 このまま次のステージへ移行させていただいてよろしいでしょうか?」
「……は」
 少し早口で一気に言われたため、すぐにはのみこめずぽかんと口を開けていると、彼はおもむろに 黒いビジネスバッグから何かを取り出し始めた。小さくて平べったい白い箱。ソーイングセットのようにも 見えるけれど、おそらくそれではないだろう。
「よろしいですか?」
「え、あ、あの……次のステージって、えと、確か……」
 緊張しているせいか上手く頭が働かず、ついでにろれつも回っていない。
――確か……メールでの質問が終わって、それに合格したら次のテストって……言ってたような……
「私、……合格したんですか?」
 春川と名乗った男が大きく頷く。
「適正ありと判断しました。ですから今日こうして私がやってきたわけです」
「て、てて適正? 何の? ていうか、何なんですか? あのメールは……」
「全てはこの検査にクリアなされた場合に説明させていただきます」
 そう言って春川が白いケース開く。よく分からなかったが、随分と小さな正方形のガーゼだろうか。 彼はそれを慣れた手つきでピンセットを使い摘み上げる。
「これを手首に乗せていただけますか」
「い、嫌です!」
 消毒されたガーゼかとも思ったが、見知らぬ他人の手首を消毒しにわざわざ出向いてくるわけもないだろうと 慌てて両手を膝の上に引っ込める。
「そんな、それ何なんですか? 何か湿ってますけど……何……を…………」
 どういうわけか、全く頭が働かず、ろれつが回らず、とうとうろくに言葉も紡げなくなってしまった。
――あれ…………
 そういえば、彼はいつサングラスを外したのだろうか。
 薄いバイオレットの瞳が、こちらを真っ直ぐに見据えている。
「腕を出してください」
 この目には抗えない。それにしても、なんて不思議な瞳だろう。
 クレアよりも、瑛士よりも、ずっとずっと薄い紫の瞳。もう色なんて無いのかもしれない。ああ、色が無い。奇妙な瞳だ。 全然綺麗ではない。なんて恐ろしいんだろう。人間ではないとすぐに分かる。ああどうして、彼の瞳を、バイオレットなどと。 なんてことだろう。血管だ。あれは血管だ。彼の眼球には、紫に浮かび上がった無数の血管しか存在しない。

「……っ、わざわざ出向いたのに、不適合か」
――……不適……合…………?

 不適合だ。
 失敗作だ。
 悲しいヴァンパイアたちの夢が終わる。
 ついに血は絶え、色の異なる毒となる。

――誰の……声……?

 無知の第一世代から、臆病な第二世代へ。
 裏切りの第三世代から、復讐の第四世代へ。

 そして今、全ての業を背負う終わりの第五世代へ。

――ねぇ…………だ、……れ……

 血肉を食らう化け物どもの、生き残りをかけたカニバルが始まる。
 この身の淘汰も繁栄も、所詮は喰うか喰われるか。

――…………

 それならば万莉亜。

 お前はあの異形のものに、何と名をつける。



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