ヴァイオレット奇譚2

Chapter2◆「始まりのカニバル―【3】」




 随分と眠ってしまったような気がする。
――今何時……
 重たいまぶたを無理やり開いて、ぼんやりと見えてきた視界に目を凝らす。
 二つの人影と、二つの行き交う声。クレアとルイスが話しているのだと分かるまでに時間がかかった。 ぼそぼそとやり取りしているせいで会話の内容までは分からなかったが、 聞き取ろうと集中していたおかげで目が冴えて来た。
 右手首に、じりじりとした痛みを感じる。
――……?
 痛みの正体を探ろうとシーツの中で体を動かすと、こちらに背中を向けていたクレアがその気配に気付いて 振り返る。それから手を伸ばし、横たわる万莉亜の頬をそっと撫でた。こちらを覗き込む彼の探るような表情が不思議で、 万莉亜もきょとんと相手を見上げる。
「おはよう万莉亜。気分はどう?」
「…………」
 朝陽を浴びた彼のブロンドが色をなくす。
 大抵の場合日が沈むまではベッドから抜け出さない彼なので、こんなに強い日差しに照らされた クレアを見るのは久しぶりだ。
 だからつい睫毛の先まできらきらと光るそれに見惚れて言葉を返せないでいると、相手は不安そうに 眉をひそめる。
「どこか痛む?」
「……い、いえ……あっ」
 言いかけて手首の痛みを思い出した。
――なんだろ……
 寝違えたのかと考えながらひょいと持ち上げて、思わず息を呑む。
 真っ赤に腫れ上がった右手首は、通常の二倍にも膨れ上がり、熱を持っていた。 それを目視した瞬間、ぼんやりとしていた痛みが急激にはっきりとしはじめる。
「……な、……えっ?」
 混乱しながら起き上がり、手首をクレアを交互に見やる。
 万莉亜には、何の心当たりも無かった。
「放っておいても治るし、跡も残らないよ。だけど、嫌なら今すぐ治そうか?」
 狼狽する彼女の肩に手をかけてそう尋ねると、万莉亜はますます混乱したように口を ぱくぱくさせてどうにか言葉を紡ごうとする。
「勝手に治そうかなとも考えたんだけど、前にそれで君に怒られたから」
「……え、どうし、……え? な、何で私……怪我を」
「話せば長くなるんだけど」
「は、話してっ!」
 噛み付くように彼の胸元に掴み掛かる。尋常ではない怪我だ。 骨折のように腫れ上がり、火傷のように皮膚が爛れている。それも、手首の一部分だけ。 一体何をどうしたらこうなるのか、万莉亜には想像もつかなかった。
「つまり、……何て言ったらいいんだろう。パッチテストみたいなものかな」
「……へ?」
「君は昨日の夜、パッチテストを受けたんだ。だからそれは、一種のアレルギー反応」
「な、何の?」
「ある人物の……血、いや、……血清……いや、ウィルスかな」
「……」
「おそらく」
 ふわふわしたクレアの説明もさることながら、その後ろに立っているルイスの胡散臭い笑顔が 恐ろしくて万莉亜は事態の重要さに気付く。
 彼らが何てことない風に装えば装うほど、猜疑心が強くなる一方だ。
 きっと何か良くないことに違いないと気付いた彼女は、兎にも角にも逃げ出したいその 一心で手首をクレアの前に差し出す。
 視界に入るのもおぞましいこの患部を消し去りたい衝動が、これからやってくるであろう強烈な痛みへの恐怖を 上回った。
「な、……治してもらえますか……?」
 震える声で懇願すれば、「もちろん」と答えてクレアがその手を取る。
 それからゆっくりと降りてきた唇が、万莉亜の手首に押し当てられる。
 鉈で一刀両断された方がいくらかましにも思える想像を超えた痛みが手首を中心に 全身に広がり、理事長室から漏れた万莉亜の悲痛な叫びがフロア中に轟いた。



******



「な、なにっ!?」
 突然聞こえた悲鳴に、全身をびくつかせながら詩織が声の出所を探る。
「万莉亜!」
 隣にいたシリルが、そう叫んで飛び出し、奥へと続く道へと消えてしまった。 その後姿をぽかんと見送った後、彼女はおそるおそる視線を戻し、目の前の女性を見やる。
 先ほどの悲痛な叫び声に驚きもせず、ハンリエットは組んでいた足を組み替える。
 その長い足をしげしげを観察しながら、詩織は思い切って口を開いた。
「あ、あの……それで……さっきのお話ですけど」
「なあに?」
 こちらをちらりともせず、視線は膝に置いた雑誌に、手にはカップを持ち、 面倒そうに返すハンリエットにやはり気後れして詩織は再び口ごもる。
 シリルが戻ってきてくれたらいいのに。
 そう心で願っても、彼女は何やら誰かの名前を呼んで立ち去ってしまった。
――マリア……?
 そう言えば、あの少年もそんな名前を呼んでいた気がする。
「……あの」
「なあに?」
「マリアって……誰ですか?」
 そう尋ねた瞬間、ハンリエットの視線が一瞬泳いだのを詩織は見逃さなかった。
「まさか……その……マグナの女性ですか?」
「違うわ」
「じゃ、じゃあ……えっと、えと、え、枝の?」
 一度にたくさん説明されたせいで、混乱気味の思考だが、どうにか覚えている 単語を口にして相手の反応を伺う。
 じっと待っていると、しばらくの間があって、ハンリエットは首を横に振った。
――え…………
 他に何かあっただろうか。
 何せ自分に全てを説明してくれたのはあの幼いシリルだ。
 順序も何も関係無しに好き勝手飛び出てくる単語を必死に理解しようと努めたが、 何か聞き零したものがあったのかも知れない。
「あ、……じゃあ、あの男の子と同じで……えと、なんでしたっけ。四番目の?」
「万莉亜が第四世代? やめてよ。違うわ」
「……」
「万莉亜は、普通の女の子よ」
「…………」
「とにかく、ここはこれ以上穀潰しを囲うつもりは無いの。分かったらお引取り願えるかしら」
「……そんな」
 またこのやり取りか、と両者ため息を零す。

 昨晩、瑛士を追ってやってきたこの新校舎で、もうひとつの螺旋階段を見つけてしまった。
 辿り付いた光景に我が目を疑い呆気に取られていると、突然現れた赤い眼と赤い髪をした少女。
 彼女が説明してくれた彼らの正体は、突飛過ぎてとても納得できる内容ではなかったが、 この不可思議な空間と、不可思議な住人たちの存在が彼女の話を裏付ける。
 ここはシリルの言うとおり隠された空間で、シリルの話の通り赤い目をした従者と、 バイオレットの瞳をした第四世代の少年がいる。
 生徒の目を欺き、ひっそりと隠れるようにして生活をしている。
 けれどそんな中詩織だけは、唯一惑わしの効かない存在であり、それを「マグナ」と呼ぶのだと あの少女は言っていた。
 その話がもっと聞きたかったのに、途中から現れた金髪の美女は妙に刺々しく、自分に冷たく思える。 歓迎されていないのだろうか。
 シリルは、ここのボスはマグナを探していると、確かにそう言っていたのに。
「私を……理事長に……クレアさんに会わせて頂けませんか?」
「何度も言ったでしょ。取り込み中よ」
「…………」
「あなた、私が意地悪してここで通せんぼしてると思ってる? 全然違うわよ。これはクレアの 命令なの。もう誰もここには入れるなって命令されてるのよ」
「……どう、して」
「ここは、あなたの居るべき場所ではないから。ただそれだけよ」
「私が居るべき場所は私が決めます……っ」
 折れそうな心を奮い立たせて相手を睨めば、どこか憐れむような視線を向けられて戸惑う。
「……そうね」
 視線を落とすだけだった雑誌を閉じてテーブルに投げると、ハンリエットは相手に真っ直ぐ 体を向けて小さなため息を零す。
「あなたがどこで生きようが勝手だけれど、こちらにも選ぶ権利があるわ」
「……っ」
「現実逃避結構。好きなだけやって頂戴。ただし、ここではない場所でね」
 ぴしゃりと言い放たれた言葉には、縋る余地など一ミリも見受けられず、詩織は うな垂れてまた涙を堪える。
 こんなはずではなかった。
 想像していた扉の向こうは、こんなに冷たい世界ではなかったはずなのに。



******



「集団……自殺?」
 信じがたい気持ちでそう尋ねれば、クレアは頷いてから、 ルイスの用意した甘ったるいだけのクッキーを齧り、顔をしかめる。
「……つまり、最近起こっている事件のうち何割かは、事故ではなくて、 事故に見せかけた集団自殺なんだよ。この間は嘘ついてごめんね」
 さらりと謝られ、いつの事だろうと咄嗟に考えたが、結局思いつかないままに万莉亜は頷く。
「それが……え、でもどうして……そんな事を?」
「事故に見せかけるっていう偽装は、彼らの意思とはまた別で、それが明るみに出るとまずいと 悟った偉い人たちの思惑が働いてる。集団自殺が明らかになれば、また色々とやっかいだし、そこに 思想的なものが絡んでいると知れば、マスコミの恰好のネタになる」
「思想……さっき言ってた……宗教ですか?」
「そう」
 顔をしかめたままのクレアの前に、ルイスはそっと水を差し出し、空になった万莉亜のカップには 紅茶を注ぐ。
 朝食にはまだ早いが、とりあえず空腹の万莉亜のために二人はテーブルを挟んで会話を始めていた。 しかし寝耳に水の万莉亜には悠長に手を動かす暇など無く、ただただ驚愕するのに忙しい。
「もともと、食い付きがいいんだよね。古今東西、不死の体ってのは神格化されやすい。 分かりやすい神様の象徴というか……宗教を起こすにはもってこいの餌で、これが 初めてでもないんだ。日本では多分初めてだけど、過去にもいくつか存在していた。でも総じて息は短い」
「……どうして?」
「みんな馬鹿じゃないから、気がつくんだよ。一欠けらでも神様を喰ってしまえば、 自分も同等の存在になれる。だからすぐ内部分裂が始まる。結果、喰うか喰われるかの惨事になって 皆散り散りになる。大抵はこのパターンで尻すぼみなんだけど、今回は違うみたいだ」
「…………」
――クレアさん……
 ついに血が絶えたと、呟いた時の彼の表情は曖昧で、喜んでいるのか、悲しんでいるのか 万莉亜には判断できなかった。
「第四世代には、次世代を生み出す力がほぼ無いと言っていい。 一連の事故で出た大量の死体は、それでも果敢に挑んだ信者たちの成れの果てだ」
「……そんな。無駄死になのに……どうしてそんなことを……」
 最早食欲など消え失せ、目の前に並ぶスープやパンをぼんやりと眺めていると、 クレアは自分がしかめっ面で吐き出したクッキーをつまんで万莉亜の口に運ぶ。
「……」
 少し戸惑った後に口を開いて素直に食べ始めた彼女を見て彼が満足げに微笑んだ。
 甘くて美味しい。
「多分、成功例が出たんだろうね」
「……へいこうれい?」
 もぐもぐと口を動かしながら尋ねる。
「うん。少なくとも、一人は生まれているはずだよ。勝率がゼロなら、誰も勝負に出たりはしないだろう。 何といってもチップは自分の命だからね」
「…………」
 ぱさぱさとしたクッキーが渇いた喉を通る。
 何だか上手く飲み込めないのは、なぜだろう。
 もう「どうして」と詰め寄る気分にはなれない。
 0.1%の確立に賭けてしまった彼らを愚かだと嘆く気にもなれない。
 人の心は脆い。



******



 会って話がしたい、と連絡を貰ったときは、何の罠かと疑った。
 それでも、万莉亜は無事目覚め、体調も良さそうだし、クレアが付いているのだから自分が 見守っている必要も無いだろう。「何か情報が得られるかも」と ルイスも背中を押す。どうせ部屋にいてもやることは無いし、詩織の来ているフロアを下手にうろつくのも気が引ける。 かといってシリルの遊び相手も遠慮願いたい。
 そんな些細な事情が積み重なって、瑛士は学園を後にし、加瀬川恭士郎の誘いに乗ることにした。

「突然ごめんね」
 待ち合わせの駅前に佇んでいた恭士郎は、曇りの無い笑顔でそう挨拶をする。
 ぱりっとしたストライプのシャツに、淡い茶色のチノパンを履いた恭士郎は、 たとえビン底メガネをかけていても十分に爽やかで瑛士は思わず目を細めた。
 彼と出会った場所が湿った怪しいビルのおかしな面接会場だという事実をうっかり忘れてしまいそうになるほどの 屈託の無い笑顔だ。それが逆に胡散臭く思えるのは、さすがに穿った見方だろうか。
 ともかく、僅かな警戒心は保ったまま、瑛士も負けじと爽やかな笑顔をひねり出した。
 二人はそれから近場のファーストフード店に立ち寄り、少し遅い朝食を取る。
 注文したハンバーガーに黙ってかぶりつく瑛士とは対照的に、恭士郎はひたすら喋り続けた。 今日の彼は、少し浮かれているように思える。
「つまり俺は、典型的な人生の落伍者なんだ。でもそれはいい。大した問題じゃない」
「それ、食わないならくれよ」
「どうぞ。それで、話の続きだけど、落第だとか、麻薬中毒だとか、そんなことはいいんだ。 乗り越えられる問題だと思っていたし」
「おう」
「でも人殺しは駄目だ。きっと両親が首を括ってしまう。俺のせいで、加瀬川家は末代まで 後ろ指をさされることになる。それだけは避けなければならない」
「……ほー」
「だから俺には、……あの力がいるんだ。彼のような力が」
「お前いくつよ。十九だっけ? 自首しろよ。名前も顔も出ないしさ。それでいーじゃん。情状酌量で、 またすぐ帰ってこれるって」
 気休めに受け取られるだろうが、あえてそうアドバイスしてみると、恭士郎はやはり鼻で笑って 頬杖をついた。
「情状酌量なんてつくもんか。俺は薬の売人を殺してしまったんだ。理由は、金が無いからだ。 悪意ある計画的殺人だ。はじめから、薬目当てで殺したんだ」
「家金持ちなんだろ。いい弁護士探せよ。 勉強でノイローゼだったとか、幼児期のなんつーの? 抑圧的環境とかよ、薬で精神がいかれてたとかでもいいじゃん。何とでも言って 裁判してみたらいいだろ」
「……分からないかな。それが出来たらあそこには行ってないよ」
――……まぁそうか……
 理由は千差万別だ。
 彼に比べれば、瑛士が一線を踏み越えた理由などもっと掴みどころが無い。
「君なら……分かってくれると思ったんだけど」
 ほんの少し残念そうに恭士郎が零す。
 彼は今日、テストに合格した喜びを分かち合おうと瑛士を誘ったのだろうか。
「まぁ……分かるけどよ」
 情報をスムーズに集めるためには、テストをクリアした恭士郎とも親交を深めたほうがいいのだろうが、 ついつい水を差してしまう。これ以上口を挟むのはやめようと心に決めて、瑛士はすっかり氷の解けた 薄いオレンジジューズをごくりと飲み干した。

「”アルカード”って、どういう意味か知ってる?」
 店を後にし、ぶらぶらと街を歩いていると、ふいに恭士郎が聞いてくる。 考えたことも無かったので、正直に首を振ると、彼はどこか勝ち誇ったようにニッっと微笑んだ。
「有名なアナグラムさ。エー、エル、ユー、シー、エー、アール、ディー」
「……A、L……?」
「ドラキュラだよ。逆さに読むと吸血鬼になるんだ」
「へーえ」
「始めは、陳腐な名前だと笑ってしまったけど、知れば知るほど、ぴったりだと思うようになってきた。 不死の体を持った、血肉を食らう者たちの名前にはね」
――ああ、だから……
 わけのわからぬ団体に潜入し、入手した教団名を伝えた際、「くだらない」と鼻で笑ったクレアを思い出した。 あの時は、さして気にも留めなかったのだが。
 それにしても、吸血鬼とは。
 昔の同胞を思い出す。彼らもまた、そんな架空の存在に己の姿を重ねていた。自分たちは、 選ばれたバンパイアの末裔なのだと言って、脆すぎる人の体を見下していた。
 瑛士も、短い間ではあるが、そう信じていた。
 ただ、だからといって、得られる優越感はそれほどのものでもなかった。
 どんなルーツを持っていようと、何の末裔であろうと、自分たちがヒエラルキーの最下層であることに 変わりは無い。今思えば、あの主張はそんなコンプレックスの裏返しなのかもしれないが。
「俺たちはあのテストに合格した。適性を持った人間なんだ」
 何か偉業を成し遂げたような口調で恭士郎が呟く。
 すれ違う通行人に世話しなく視線を向けてそう零す彼の頭の中には、 どんな理想郷が浮かんでいるのだろうか。
 張り巡らされた罠に自ら捕らわれ、くだらない心理テストと、わけのわからぬパッチテストをクリアした。 たったそれだけの、随分と安い偉業だ。
「でもあれは……何だったんだろう」
 七分丈の袖から覗く右腕の手首にちらりと視線を落とす恭士郎を見て、 つられた瑛士も己の手首を確認する。
 瑛士が持ち帰ったガーゼを調べに出かけていたルイスとシリルが今朝になって帰って来た。
 調査の結果分かったことは、これは人間のある正常な細胞を抗原と認め、それに対する抗体を持つ血清だということ。
 つまり人にとっては毒以外の何者でもない液体ということになる。
 サンプルとして持っていったクレアと瑛士の血液から、同じものを発見することは出来なかった。
 というのも当然で、あの染み込ませただけのパッチテストで、他ならぬ瑛士にも異常が見られた。 ただ彼は、それを悟られる前に治癒が完了していただけで、実際のところあのテストを無傷でパスしたのは 恭士郎一人ということになる。
「……第五世代の血だよ」
「え?」
 上手く聞き取れなかったのか、笑顔のまま振り返った恭士郎に、瑛士はそっと首を振った。
「何でもない。何だっていいよ。パスできたんだからさ」
 そう言うと、彼は少し考えた後、「それもそうか」と答えてまた当てもなく歩き出した。
 その背中を見て、瑛士は伝えたい沢山の言葉を飲み込む。
 恭士郎には、彼の言うとおり、第五世代になるための適性があるのだろう。
 彼ならば、次世代のバンパイアに、最後の末裔に成り得るのかもしれない。
――でも…………だから何だって言うんだ……
 何だって手に入ると思っていた。
 限りない自由が待っていると思っていた。

 それなのに、なぜ痛みが付いてまわる。
 くだらない化け物が、吸血鬼だと胸を張ったところで、 世界は色を変えたりしないのだ。



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