ヴァイオレット奇譚◆番外編

◆淡き恋に捧ぐレクイエム 4




 手を伸ばして、空振り、思い知る。愛した人は、もうどこにもいない。

────「行かないでっ……!」
 夢の中で、万莉亜はひどく叫んでいた。喉が焼け切れそうなほどに、力の限り。それなのに、 思うように声が出ない。
────「私の事、好きじゃなくてもいいから…………行かないで」
 涙が止まらない。どうしてこんな風になってしまったんだろう。 いつの間にこんなに弱くなってしまったのか。彼が居ない明日を、どう生きていいか分からないなんて。

 息苦しい思いで目をさまして、無意識に時計を探る。
 悲しい夢を見ていた気がするけれど、涙は出ていない。その代わり、じんわりと肌に浮かんだ汗が気持ち悪かった。 暖房が強すぎるせいだ。手元を探ってみるがリモコンも時計も見つけられず、諦めて万莉亜は身を起こす。 部屋は暗く、まだ夜は続いているらしい。いつの間にかソファで寝入ってしまったのだろうか。 ハンリエットがベッドまで運んでくれたに違いない。
 下の様子はどうなっているのだろう。訪問客はもう帰ったのだろうか。皆はどこにいるのだろう。
 不安ばかりがつのりじっとしていられず万莉亜はベッドから降りると素足のまま部屋の扉へ向かう。 その時、ふとバスルームから水音がするのが聞こえて万莉亜は弾かれたように振り返った。
 確かに聞こえる。

「クレアッ!」

 ほとんど叫びながらバスルームまで駆けてドアをノックする。
「クレア? いるのッ?」
 ついつい力んでしまう拳でドアを叩いていると、やがてガラス戸は開かれ、シャワーを浴びていたらしいクレアが暢気な声で答える。
「万莉亜、おはよう」
「……帰ってたの」
「さっきね」
「声かけてくれたらいいのに」
「汚れた体で君のベッドに入るわけにはいかないだろ。でももう出るよ」
「あ、ううん……ごゆっくり」
 今更ながらに一糸纏わぬ彼の姿を前にして恥ずかしくなり万莉亜は背を向けてそう言う。
「あの、ごめんなさい。私、部屋にいるから」
「綺麗になったかチェックしなくていいの?」
「じゃ、じゃあね」
 クスクスと笑う彼から逃げるようにしてバスルームを飛び出す。

「はぁ」
 大きなため息をついてベッドに倒れ込む。
 安心したせいか、ひどく脱力してしまった。
──良かった。もう戻ってきたって事は、大事にはならなかったんだ……良かった……
 散々気を揉んだせいか、脱力したままの万莉亜がそのままベッドに突っ伏していると、 シャワーを終えたクレアがバスローブ姿で現れ、首を傾げる。
「万莉亜?」
 不思議そうな彼の声を聞いて起き上がると、ベッドに腰掛けたまま腕を伸ばし相手の腰に抱きついた。 固くて平べったいクレアの腹部に顔をすりつけてゆっくり息を吐く。
「濡れちゃうよ」
「いいの。……無事で良かった」
「大丈夫だって言っただろ」
「でも心配だったから」
 くぐもった声で言う万莉亜にふと微笑んでクレアが両腕をまわす。 濡れるのもお構いなしに抱きつく万莉亜の体を、ごめんねと囁いて強く抱きしめた。



******



 ガレージで拘束された男を見張り続けた瑛士が、痺れを切らして立ち上がる。
 ちょっと上の様子を見に行ってくると言って席を外したあの男がもう一時間以上戻ってこない。

「なぁあいつ寝てんじゃねぇの?」
「さぁ」

 しれっと答えるルイスは、自分とは違って食べ物はもちろん睡眠すら必要としないふざけた生き物だ。 先ほどから猛烈な睡魔と戦っている瑛士は、こんな時ばかりは”枝”という生き物が羨ましくなる。

「くそ、腹も減ってきたし、このままじゃ夜が明けちまう。やっぱ俺クレアを呼んでくるぞ」
「来ましたよ」

 拘束されたチーノからは一瞬たりとも視線を外さずにルイスが言う。
 彼の言うとおり、玄関からこちらへ向かう足音が近づき、やがてクレアが顔を見せた。

「おいてめぇ、遅いじゃねぇか。何一人だけ着替えてんだよ」
「そろそろ頃合いかなと思ってね」

 ルイスの前でぐったりと横たわるチーノを見下ろし、クレアが言う。
 席を外す前に打った強い麻酔は、じわじわと彼の体から自由を奪う。 かろうじて意識を保っている程度の様子を見て、クレアは満足そうに頷いた。

「上は大丈夫だったのかよ。マリ、いや、あの……あいつは」
 この場において万莉亜の名前でも出そうものならチーノより先に抹殺されるに違いない。 殺意の籠もったルイスの鋭い眼光に気づき慌てた瑛士が途中で口ごもって誤魔化す。
「大丈夫。疲れ果てて眠ってるよ」
 呆れたように言ったクレアの言葉にほっとしたのも束の間、不可解そうに瑛士が小首を傾げる。
「なんであいつが疲れるんだ。何もしてね―じゃねーか」
「さあね。自分で考えれば」
 なぜか不敵に微笑んだ相手に瑛士はますます混乱したが、しゃがれた声で拘束された男が何か言葉を発したので、 緊張してそちらに意識を向けた。

『私を……拘束する必要はない……私は、』
『悪いが念には念を入れさせてもらう』
 すかさず答えたクレアに、チーノは頷く代わりにわずかに瞬きで答える。
『害を……加えるつもりはない、ということを、』
『それはもう分かった。だがそれとこれとは別だ』
 もう一度、瞬きで頷く。

『では話を聞こうか。君はアリオスティの幹部だってね、チーノ・ダリエンツォ』
『……あ、ああ。……なぜ、それを……?』
『僕の側近は優秀なんだよ、チーノ。君がボスのサーラ・コルテーゼに横恋慕していることすら知っている』
『……』
『随分複雑なんだってね。君たちのファミリーは』
 ずけずけと物を言う相手に、しばらくは目を丸くして閉口していたチーノだったが、 やがて諦めたように目を伏せ、痺れて舌っ足らずになってしまいがちな口を開いた。

『複雑……だが、見ようによってはとてもシンプルと言える。君たちはもう知っているかもしれないが、 我がアリオスティには宿敵がいる。名は、ジャン・アリオスティ。かつてアリオスティを結成した男、そして…… サーラの亭主だ。
 あの男、ジャン・アリオスティはこの辺りでは抜きんでて強かった。食った肉の量だろうが、 我々が束になってもあいつにかすり傷一つ負わせることは出来ないだろう。しかし今、やつとサーラは犬猿の仲にある。 我々は常に、ジャン・アリオスティが新しく作った組織と睨み合いの状況にあるんだ』
『……大変そうだね』
 さらっと言ってのける相手に苦笑して、チーノはまた大きく息を吸い込んだ。
『そこへ来たのがあんたたちだ。この好機をジャン・アリオスティが見逃すはずがない。 どうにかしてあんたに取り入ろうと躍起にあるはずだ。たとえそれが失敗したとしても、 第三世代の肉は……高く売れる。欲しがってる奴はこの世にゴマンと居るからな』
『随分見くびられたもんだ』
『怖い者知らずなんだ。サーラもそうだ。似たもの夫婦なんだよ。あそこは……』
 少しだけ悔しそうに唇を噛んで、チーノは眉根を寄せた。
『わざわざ忠告してくれなくても、僕は誰とも手を組まない。もちろん、君たちともね』
『……サーラは、根っからの悪人じゃない。話せば分かる女性だ』
 話しても分からないからお前はこんな無謀な行動に出たんだろ、と突っ込むのは野暮だろうか。 クレアは黙ったまま、必死に言葉を紡ぐチーノの悲愴な表情を見つめた。
『サーラを、守ってやってくれないか。ジャン・アリオスティは、今かつてないほどにサーラを敵視している。 原因はあんたたちだ。自分のごちそうであるはずのあんたたちにちょっかいだされるのを嫌っている。無論サーラは、 ……取り入ろうなんて露ほどにも思っていないだろうが』
『なら君が今日僕に接触したことで余計にその危険性が高まったね』
『それは……分かってるさ。でも……時間の問題だった。サーラは、礼儀知らずのあんたたちにそのうち喧嘩を吹っかけにくる』
『もう来てるよ』
『……え……』

「ルイス、同じルートで女がこっちに向かってる」
「追います」
 素早く答えて背を向けたルイスが足早にガレージを後にする。

『君が携帯に出ないのを怪しんで匂いを探ったみたいだね』
『……』
『まったく、なんて迷惑な話だ』
 うんざりして天を仰ぎ、しばらくそのまま思案するクレアをおそるおそるチーノが見上げる。

『サ、サーラに乱暴なことはしないでくれ……彼女は気が強いけど、か、可哀想な女性なんだ』
『うるさい』
『……た、たのむ。彼女はどう足掻いたってあんたに敵わない。頼むよ、どうか、説得してくれ……』
『あのね』

 いい加減あきれ果ててクレアはため息をついた。

『君のボスがどれだけか弱いか知らないけど、少なくともこの家のドアは易々とぶっ壊すだろうよ』
『……』
『僕にだって守りたいものがある。悪いけど、自分の宝物は自分で守ってくれ』



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